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下城戸

上城戸
一乗谷川の上流付近に「上城戸」が残されていますが、こちらは土塁のみ。(幅13m、高さ5m、長さ50m)

下城戸

東西の山が狭まった谷の入り口に設けられて城門とされました。現在は幅18m、高さ5m、長さ20mの土塁が残り、門跡には重さ10t以上もある石が積み上げられています。外側には掘りもあり、一乗谷川とつながっていたと考えられます。  

西山光照寺跡 (石仏群)
一乗谷で最大の寺院であったと推測されている天台宗真盛派の寺院の跡。創建は平安時代で、朝倉敏景(孝景・教景)が叔父の将景の菩提を弔うために再興したとされています。寺自体は朝倉氏滅亡後の1611年に北ノ庄に移ってしまっており、現在は旧参道両脇に38体の石仏が残されているのみ。

復原町並

塀に囲まれた重臣たちの屋敷が並び、道路を挟んで武家屋敷や庶民の町屋が計画的に並んでいた様子がリアルに再現されています。発掘された石垣や建築礎石をそのまま使い、柱や壁、健具なども出土した遺物に基づいて復原されています。(有料)

復原町並の模型 復原町並
資料館の復原町並の模型
復原町並の商人の家

↑当時の武士たちの生活ぶり    ↓商人の家

復原町並周辺の遺跡





☆入場料:210円

 

周辺のおすすめスポット ▼
▲一乗谷川の向こうに見えているのは「復原町並」
▲一乗谷川と遊歩道。写真の右側は朝倉館跡前の広場。
▲中央奥に見えているのが、朝倉館跡の唐門
一乗谷朝倉氏庭園

朝倉館跡周辺に点在する館跡庭園・湯殿跡庭園・諏訪館跡庭園・南陽寺跡庭園を含む4,205uは平成3年に特別名勝に指定されました。時間がなかったため全部は回れませんでしたが、今も堂々と残る池泉庭園の石組などから小京都といわれた時代の庭園の佇まいを偲ぶことができました。

湯殿跡庭園 湯殿跡庭園
湯殿跡庭園 朝倉館跡から階段を登ってすぐの高台にあり、戦国の気風を漂わす荒削りで力強い石組みから、4つの庭園の中で最も古いと推定されている。山際から水が注いでいた池泉庭園だったと考えられ、中島や出島があり、発掘調査の結果で導水路や排水路の跡も確認されています。
※写真右は「中の御殿跡」より見た「湯殿跡庭園」
。 
湯殿跡庭園より中の御殿跡 中の御殿跡
 中の御殿跡
山麓を削って造った屋敷の跡で、屋敷の礎石や池跡が残っています。義景の母の高徳院の居館があったとされています。
※写真左は「湯殿跡庭園」より見た「中の御殿跡」 
諏訪館跡庭園

諏訪館跡庭園
諏訪館跡庭園

 諏訪館跡庭園
 


朝倉義景の妻・小少将の館の跡で、朝倉氏遺跡の中でも最も規模の大きい庭園です。苔ははえているものの、立派な日本庭園の形を今に伝えています。中央には4mあまりの大きさのある巨石があり、この石には3代貞景や4代孝景の法名も残されているとか。


※諏訪館跡庭園からのびている遊歩道を歩いていくと、朝倉館跡から東北200mの高台にある「南陽寺跡庭園」に行くことができます。
 南陽寺は朝倉氏代々の女性が尼僧として住んだところで、朝倉義景が将軍・足利義昭を招いて観桜の宴を開いたことで知られています。現在は庭園の一部が残っているだけですが、当時は堂をはじめ多くの建築物があったそうです。
朝倉義景公墓所
朝倉館跡と館跡庭園
唐門
 豊臣秀吉が朝倉義景の善提を弔うために寄進したものと伝えられ、門の表には朝倉家の三ッ木瓜の紋を、裏には豊臣家の五三の桐の紋が刻まれています。唐門の前の堀にはたくさんの鯉が泳いでいます。
朝倉館跡

 ↑↓5代当主の朝倉義景が済んだ館の跡で、6,500uの敷地には常御殿、主殿、楷書茶室、台所厩、蔵などが整然と配置されていました。上の写真に写っていませんが、東側の山際には館跡庭園の石組も見られます。写真上の中央の木の下にあるのが唐門。

朝倉館跡 遺跡 朝倉館跡 遺跡
朝倉館跡から湯殿跡庭園へ
朝倉館跡の奥の方から湯殿邸庭園方面へと登っていく階段があります。その脇の森の木陰に「朝倉義景公墓所」(写真右)があります。

いちじょうだに       あさくらし        いせき    
一乗谷朝倉氏遺跡   

  一乗谷朝倉氏遺跡は、福井市街の東南約10kmにあり、戦国時代にこの地域を治めた朝倉氏の城下町の跡を遺跡として整備したものです。足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あいの東西約500m、南北約3kmの地域を指します。
 昭和42年ごろから発掘調査が進められて遺跡として整備され始め、昭和46年には一乗谷城を含んだ278haが国の特別史跡に指定されました。また、平成3年には諏訪館跡庭園など朝倉氏遺跡内の4つの庭園も国の特別名勝に指定されています。


  
遺跡は一乗谷の狭い谷間に点在しており、朝倉氏の館をはじめ、家臣たちの武家屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に作られた道路の両側に並んでいたことが発掘調査で明らかとなっています。一乗谷駅近くには県立の「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」がありますが、そこから点々と続く遺跡をつなぐように遊歩道が整備されています。
 遠く戦国時代の人々の暮らしぶりに思いを馳せてながら、ゆったりと緑に囲まれた豊かな自然を堪能できる場所ですので、できれば半日ぐらいかけてのんびり歩いてみたいところです。
 私は時間がなかったので、主だったスポットだけのご紹介となります。、朝倉館跡各庭園跡復原町並はすぐ近くに隣接しており、こんなかんじで歩けます。

 復原町並(有料)から先に見学してもOK.。私は約1時間半ほど散策したのですが、この付近はとても雰囲気が良いのでのんびり散策するのにおすすめです。
 もうちょっと時間があれば、さらに南陽寺跡庭園などにも足を伸ばせますし、もっと時間があれば一乗谷城跡へ登ることも可能です。お城への道はかなり厳しいコースのようですが、見晴らしは良く、眼下に朝倉氏遺跡が一望できるようです。

★朝倉氏の歴史

 朝倉氏の祖先は、但馬国養父郡朝倉(兵庫県養父市)の豪族で、初めは日下部を姓としていました。甲斐氏、織田氏とともに守護代として越前の守護・斯波氏に仕える家柄でしたが、足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱(1467-77)に乗じて甲斐氏を追い、朝倉孝景越前の守護に取り立てられて一乗谷を本拠としました。
 以後、第5代の義景まで103年にわたって一乗谷は越前の中心として繁栄し、京や奈良の僧侶などが下向して北陸の小京都として栄えました。

 1565年、朝倉義景将軍・足利義昭を迎えて一乗谷で保護しましたが、義景は義昭の上洛の要請に従わなかったため、織田信長を頼って越前から去りました。しかし、上洛を果たした信長は次第に将軍・義昭と対立するようになり、信長討伐の御内書を義景に送りますが、結局、1573年に朝倉氏は織田信長に攻められて敗れ、焼き討ちに合って城下町も失われてしまいました。