吉崎西別院 御山への階段 嫁おどしの伝説 蓮如上人銅像
吉崎御坊 西別院と吉崎寺
東別院と願慶寺
御山 (吉崎御坊跡) ▼
吉崎御坊跡  「吉崎御坊」は、浄土真宗の中興の祖・蓮如が比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れ、1471年(文明3年)7月に浄土真宗の北陸における布教拠点として坊舎を建立し、約3年間布教を行なったゆかりの地です。
 「吉崎御坊」の建てられた吉崎山は越前と加賀の国境付近にあり、加賀を流れる大聖寺川の河口と越前の北潟湖が日本海に注ぐ水路の合流地点の越前側にあります。大きな鹿に導かれてこの場所にたどりついた蓮如上人が一目で気に入ったという伝説の残るとても風光明媚な場所で、北・西・南の三方を囲んだ北潟湖が天然の要害となる絶好の地形でした。この「吉崎御坊」の跡地は今も「御山」と呼ばれ、神聖な場所とされています。

 この地で蓮如上人は教義を民衆にわかりやすく説き布教に努めたため、御坊には北陸はもとより奥羽からも多くの門徒が集まり御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び寺内町を形成してにぎわいました。

 しかし、1474年に火災に遭い御坊を焼失。この時はすぐさま再建したものの、翌年再び焼失。吉崎滞在を許可した越前の領主・朝倉孝景との関係がこじれ、再建の目処立たず、蓮如上人は吉崎を退去して河内国(大阪)へ居を移しました。

 その後は、蓮如の退去直後に仮屋が建てられましたが、1506年(永正3年)に朝倉氏が加賀から越前に侵攻した一向一揆を弾圧した後、吉崎の坊舎を破却してしまい、それ以後は廃坊となりました。

 1602年(慶長7年)、本願寺は東西2つに分裂。その後、本願寺派(西本願寺)と大谷派(東本願寺)は吉崎御坊の復興をめぐって対立しました。しかし、吉崎山の御坊跡(御山)のふもとに、1746年(延享3年)に本願寺派(西本願寺)が、翌年の1747年には真宗大谷派(東本願寺)が別院を建立。それぞれ「西別院」、「東別院」と呼ばれ、北陸における重要な拠点となりました。両別院のほか、周辺には本願寺派の「吉崎寺」や大谷派の「願慶寺」、「蓮如記念館」などがあり、どこも蓮如上人にまつわる品々や「嫁威し」などの伝説について競うように展示しています。

 蓮如の坊舎のあった「御山」は、1975年には国の史跡に指定されて公園として整備されています。現在は東西両派共有の地となっており、東西の別院の間にある細い路地から登ります。
 北鎌湖を見下ろす「御山」には、緑の木々に囲まれて高村光雲作の蓮如上人の銅像のほか、御坊の本堂跡、蓮如上人腰掛石、蓮如の娘・見玉尼の墓や加賀千代女の句碑など多くの見所が点在しています。それに加え、春はソメイヨシノや山桜が美しく咲く、桜の名所でもあります。
御山より見下ろす北鎌湖
 御山(吉崎山)より見下ろす北鎌湖
緑に囲まれた御山
吉崎御坊 サトザクラ
  4月末はまだサトザクラの見頃 蓮如上人銅像
蓮如上人銅像
サトザクラ

高村光雲の4大作の一つとされている銅像で、昭和9年11月の完成。(高さ5m、台座約7m)

緑に囲まれた御山 本堂跡

吉崎御坊 本堂跡
古絵図によると、本堂は南に向き、柱間五間四面で正面中央に向拝があって、中に御本尊と親鸞上人の御影を安置していた。また、本堂の西側に庫裏と書院があった。

御山から両別院へ降りる階段

御山より階段を降りると、両別院と願慶寺がある

蓮如上人お手植のお花松

蓮如上人お手植のお花松
この古い幹の株は、吉崎に御坊を建てられた時に蓮如上人が自身で植えられた松の木の根元であると伝えられている。その後、そのお花松が枯れたので代替の若松が植えられ、それが成長して今のお花松となった。