武陽山 能仁寺

 飯能駅からクルマで5分ほど、展覧山のふもとに「武陽山 能仁寺」はあります。このお寺の一番の見所は、本堂北庭として保存されている能仁寺庭園。日本庭園百選にも選ばれている名園ということで、紅葉の始まったばかりの11月の中ごろに出かけてきました。
 庭園だけでなく、入口の山門から堂々とした風格があって由緒を感じる佇まいです。天気も曇り勝ちで夕方近くでしたが、人も少なくゆっくりと見学することができました。  (2008/11/11)


 能仁寺の始まりは、室町中期の1501年に飯能の武将・中山家勝が名僧・斧屋文達師を招いて小庵を結んだこととされ、その後、家勝の子の中山家範が父の冥福を祈るために本格的な寺院として創建しました。
 その後、徳川将軍家の庇護のもとに江戸中期の元禄から享保年間にかけて曹洞宗の禅道場として発展し、末寺も20数ヵ所に及ぶ規模となりました。能仁寺中興の祖とされているのは、綱吉〜吉宗に至る4代の老中を務め、沼田城3万石の大名となった黒田直邦です。将軍の新任も厚い直邦の力により、能仁寺は老朽化してきた寺堂の再建に着手。山門・大殿・庫裡の改修を行ない、伽藍を完成させました。

 その後、能仁寺は明治維新期に 起こった「飯能戦争」の舞台となります。 徳川幕府による大政奉還後、一部の幕臣たちは官軍との徹底抗戦を主張し、1868年に「彰義隊」(頭取・渋沢成一郎、副頭取・天野八郎)が結成されました。しかし「彰義隊」は内部分裂を起こし、江戸の外で戦うことを主張した渋沢成一郎は「振武軍」を結成して江戸を離れます。彰義隊が上野戦争で官軍に破れると、「振武軍」は飯能に退き能仁寺を本陣として戦いに備えました。しかし、官軍の一方的な総攻撃により敗北を喫し、本陣だった能仁寺もほとんどを焼失してしまいした。この戦いを地元では「飯能戦争」と呼んでいるそうです。

 その後、能仁寺は仮本堂で70数年を過ごし、昭和11年になってようやく本堂が再建され、その後に山門・位牌堂・大書院・鐘楼・大庫院などが復興されました。

 寺の背後には自然散策路なども整備された「天覧山」がそなえています。この山は、能仁寺に「愛宕権現」が祀られていたことから元は「愛宕山」と呼ばれたそうですが、その後「羅漢山」と呼ばれた時期があったそうです。徳川5代将軍・綱吉が病に倒れた際に生母の桂昌院が平癒を祈願。快癒のお礼として愛宕山に「十六羅漢像」を奉納したことに由来しています。
 しかし、1883年(明治16年)に、山麓で行なわれた帝国陸軍大演習を明治天皇がこの山頂から統監したことにより「天覧山」と呼ばれるようになったそうです。

山門と仁王像
仁王像 左 仁王像 右
山門からの参道 山門からの参道
本堂の外観

本堂
  ※右端は「本堂再建記念碑」
能仁寺 見取図



大書院方面

位牌堂
位牌堂

不動堂
不動堂

お清め水
鐘楼
鐘楼
中雀門
中雀門
本堂より中雀門方面
本堂より中雀門方面
本堂内

本堂・庭園への通路


紅葉の始まりごろでしたが、ちょっと暗くて写真はイマイチ
裏山の墓地への階段
裏山の墓地への階段
能仁寺庭園
能仁寺庭園 遠景

 能仁寺の本堂の北側にある「池泉鑑賞蓬莱庭園」で、桃山時代に作られたと推定され、日本庭園百選に入ってい名園です。
 天覧山の南斜面を利用して、背後に枯滝を組み、下部を池泉とした上下2段式の庭園で、築山・亀島・鶴島・石橋・洞窟などを備えた面積324坪の庭園です。

 観賞用の通路からガラス越しにしか見れないのですが、180度きちんと整備された庭園の完成度は見事でした。天気が悪くて残念でしたが、赤やオレンジに紅葉した木々の彩りが庭園のアクセントになって魅力をアップしていました。

能仁寺庭園 能仁寺庭園
能仁寺庭園 能仁寺庭園の池
庭園鑑賞用のテラス
こちらからガラス越しに庭園を眺めます

              ★庭園の鑑賞★
参道を進み「受付」と表示のある方へ。庭園見学の受付となっているのは「大書院」。玄関の受付で見学料を支払い、順路に従って本堂を進みます。通路の途中には本堂があって、自由に見学できます。庭園は上の写真の庭園に面したテラスからガラス越しに鑑賞します。